写真いつか飽きるのではないか&ミド頭カルちゃん

私、今は一生懸命写真にむかって取り組んでいるけれど、いつか飽きるかもしれないなーって時々思う。
絵を描いていたほうが楽しいのではないかと思ってね。

写真も難しいことはいっぱいいっぱいある。最大の難しさは一期一会っていうところなんだろうなと。この日この場所に行っても昨日と同じ風景があるわけじゃなく、ひとつたりとも同じことがないところ。風景写真もそうなんだと思う(同じように見えて毎日風景は小さく変わっていくから)。それ以上に野鳥とかいきもの相手だと、自分が飼っていない限り同じ風景は繰り返すことがない。
結局いい場所を探して、いい条件を経験を経て体得して、そのうえで二度と撮れない写真を撮れるように頑張るのは辛い時も楽しいこともいっぱいあるのだけど、絵を描くのとの決定的な違いはまっしろなところに1から筆を入れていく楽しさが写真にはないなってことかな。絵なら自分の思うように世界を広げられるし、好きなように色が使えて好きなように描けてどこででも始められていつでもやめられる。自由度がものすごく高い。そこが絵は楽しい。
じゃあ写真に自由度はあるのか?一番の自由は自分が被写体を決められることなんだろうなー。もっと違う形での自由を考えるとしたら・・私はあまりレタッチしないので(しても明るくするかシャープネスかけるぐらい。でもそれは日記用の写真にであって、ホントに好きな写真はそもそもピントがばっちりの写真が多いから手を入れることはほとんどないなぁ)レタッチの自由度ってのは価値観の中にないんだけど、設定が自由に変えられるのも自由度のうちのひとつなのかな。絞りとか、SSとかの。そういうのも食事をするかのように自然にできるようになってその他もいろいろできるようになってからの自由度、となると、思うように撮れる、想像のような景色が撮れるのが自由ってことなのかな。それならまあまあだいたいできるようになってきているけど、もっと違う自由っていう概念が写真にはありそうな気がする。今は分からない。

この楽しさに自分の写真に対する思いがいつまで持つのかなぁ・・・て。
たんにスランプみたいな感じなのかも。私は毎日行く場所を変えないしな。淡々と粛々と同じ時間に同じ場所に通い続けている。なんかの修行なのかと思う(笑)こういう時もなくてはだめだと思っていたりもするので。きっといつかぱっと違うドアが開いて新しい自分と出会える日を楽しみに、それまでは同じことを淡々と繰り返すという大切さを楽しもうと思う。

ひとつのことにずーーーーっと貫き通す楽しみみたいなものが私にはないかもしれなくて、ある程度やれちゃうと下手に器用貧乏なところがあるので「まいっか」で新しいことに目が向いたりしがちなんだよね。でもひとつのことを掘り下げるところの楽しみって絶対あるはずでそういう人が勝つと思うし、目の前の自分の欲求に向けてまっすぐ突き進むのが今の毎日の課題かな。いつか化けるかもしんないしね(笑)

 

カルガモズが秋冬はいつもの公園にも増えるのですが、ちょっと顔つきの違う子がいました。あれぇ?右側の子、ちょっといかつい顔してるよね。胸のところが茶色いし。ということはひょっとしてカルガモ×ヒドリガモ?でもそうすると頭がちょっと緑っぽいから違うのかな。カルガモ×マガモ?サイズ的にはカルガモなのでどうなんだろう・・・

ちょっと追ってみます。なんか頭が丸刈りのような色合い(笑)

いつものフェンスのむこうのほうにモズりん。きみもここが好きだよね。よくここにいる。

さっきのミド頭カルちゃん(勝手に命名)。くちばしはカルガモだよなー。

すこし遠くのほうでカンムリちゃんがあさごはん。君はいつも安定して大きそうなおさかなをつかまえるよね。

ほかのカルガモたちにいじわるされているわけでもありません。なんか首が細いし。おもしろーい。交雑はあまり見たことがないので、見つけるとうれしくなります。

空からはトビちゃん。

ノーマルなカルガモが通過していきました。そろそろ落葉が始まるシーズン。

私が気づけなくて驚かして飛ばしちゃったオオバンちゃん。そんな驚かなくてもいいのに・・・ていうこと、あります。

空高くにもカルガモズ。秋の空は高いです。

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